プリンスとマイケル その対抗意識と革命(その2)

プリンスは、1984年のグラミー賞でジャクソンが8冠を達成するのを見守った。それが、同じ高みへ、自分の作品も同じくらいに認められたいとの欲望を掻き立てることとなる。ボビー・Zが振り返る。「僕たちは『Purple Rain』のラフカットを見ているころだったんだ。プリンスが次の年にはあそこにいたいのだと、僕らにはわかったよ」。同じ年の終わりころ、ジャクソンは『Purple Rain』現象を目の当たりにする。彼は上映会に出席し、コンサートへも何度も足を運んだ。その間、王位復帰への構想を練っていたのだ。

その数年後のこと。クエストラブは、ミュージック・ビデオのセットでジャクソンとエディ・マーフィーとともにいたときのことを記憶している。プリンスの話になった時だ。「エディが、『そうだなあ、プリンスはたいした野郎だぜ。僕は君と仕事をしていることがとてもうれしいけど、もうひとつの夢は、彼とも仕事をすることさ』というようなことを言ったんだ。カメラが回っていることをマイクは知らなかったと思う。彼は『そうだね、彼は天才だ』といって、続けざまにこう言った。『でも僕は彼に勝てるよ』」。

こうした競争心が、今では伝説となった卓球ゲームで衆目の見るところとなった。1985年の12月のことだ。ジャクソンはボディガードを伴って、ウェスト・ハリウッドのサミュエル・ゴールドウィン・スタジオに現れた。プリンスが『Under the Cherry Moon』の最後の仕上げをしていた場所だ。すこし話をした後、プリンスはジャクソンに卓球で挑んだ。ジャクソンはほとんど卓球をしたことがなかったが、やってみると言った。スーパースターの対決を見ようと人々が集まってきて、仕事はストップとなった。

当初、プリンスは気楽にやっていたが、やがて彼の負けず嫌いが高じて強い打球を不運なジャクソンに向けて打ち始めた。「彼はヘレン・ケラーみたいなうち方だったよ」とプリンスは友人らにふざけて言った。それに対しジャクソンは、プリンスの当時のガールフレンドのシェリリン・フェンにちょっかいを出すことで対抗した。プリンスのレコーディング・エンジニアだったスーザン・ロジャースはこう振り返る。「マイケルは自分自身の御し方を心得ていました。彼はこの卓球ゲームについては気に留めていないようでした。スタジオにプリンスを尋ねてきていたシェリリン・フェンに話しかけ始めたのです。プリンスは気にしていないようでしたが、奪い返すというつもりはないようでした。彼らはそそくさと別れの挨拶を交わしました」。

その年、ローリング・ストーン誌のインタビューで、プリンスはこう豪語した。「僕が常に自分がBadであると思っている、とみんなには分かってほしいね。自分のことをBadと思っていなければこんな商売はやってないさ」。おそらくジャクソンは、当時製作中で数カ月後にリリースされる曲の中で強調された「Who's Bad」というフレーズを思いついた時、プリンスのこの発言が念頭にあっただろう。

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極秘会談

1986年の夏、クインシー・ジョーンズがジャクソンとプリンスの極秘会談をお膳立てした。彼らは数カ月にわたりあるコンセプトについて議論していたが、この時点ではかなり具体化していた。ジャクソンはデモを完成させていた。非公式のタイトルは「Pee」とされていた(一部では、それは「プレッシャー」を意味していると言われている。これは曲とビデオのテーマである。他方で、予定されていたコラボレーター、すなわちプリンスを意味するとも)。この曲は、とびきりのシンセ・ベースにジャジーなオルガンのフィル、そして爆発的なサビを擁していた。ジャクソンと製作チーム(クインシー・ジョーンズ、マネージャーのフランク・ディレオ、レコーディング・エンジニアのブルース・スウェディーン)は、コントロール・ルームでトラックを聴くプリンスを見守っていた。

「あれは奇妙なサミットだった」とジャーナリストのクインシー・トループはSpin誌に書いている。「2人は競い合っていた。だから何一つ譲ろうとしないのだ。腰掛けてお互いをチェックしている風だがほとんど話はしない。力のある2人の間に生じた、興味深い行き詰まり状態であった」

ジャクソンが想定していた通り、彼らはエスカレートするライバル心についてマスコミにリークし始めた(2人の対立の兆候にすでに強い関心を持っていたメディアを考えれば、それは難しいことではなかっただろう)。ジャクソンは当時、P・T・バーナムに熱中していて、人々をざわめかせて興味を持たせるような広告の使い方について熱心だった。「僕は僕のキャリアそのものを地球上でもっとも凄いショーにしたいんだ」とジャクソンはマネージャーらに語っている。その年の早く、彼は最初の大成功を収めた。ナショナル・インクワイアラー誌に酸素カプセルで眠るという話を仕込んだのである(この話は世界中のメディアが追従した)。

自分の宣伝がうまいプリンスは感心を示しはしたが、懐疑的だった。彼はジャクソンと仕事をすることに興味を持っていたが、ジャクソンがプロジェクトの主導権を持っているということが気に入らなかった。彼は、ジャクソンがスクリーンの中でも私生活でも自分自身をよく見せようとしているように感じていた。「プリンスは、『彼は俺をからかいたいのだろう。俺のことを何だと思っているんだ。おかしいのか?』みたいな感じでした」と振り返るのはプリンスのマネージャー、アラン・リーズだ。「彼は、このことが両者に益のあることだと思えるほど冷静にはなれなかったのです。プリンスがゲストとして出演したマイケルのビデオが作られるところでした。これ以上ない関係というものが捉えられていたはずです。彼らはアリとフレイジャーのようでした。そしてメディアとしては、彼らを満足いくまで競わせるということができなくなってしまったのです」。

プリンスは後に、コメディアンのクリス・ロックに「BAD」参加を見送った理由について説明している。「そうだね、ウェズリー・スナイプスがやっている役、あれが僕の役になるはずだったんだ。あのビデオを思い出してよ。あの曲の最初の一節は、『Your butt is mine(お前のケツは俺のもの)』だ。僕は言ったよ、『あんな歌を誰が誰に向かって歌うんだ?』って。君はあんな歌を僕に向かって歌わないだろ?僕も君に向かっては歌わない・・・そう、だからその時は、僕たちには問題があったのさ」。

結局プリンスは「BAD」の代わりの曲を提案した。伝えられるところでは、「Wouldn’t U Love to Love Me」のデモを手直ししてジャクソンに送ったと言う。ジャネット風のグルーヴの、つい口ずさみたくなる曲だ。プリンスの弟子、タジャ・シヴィルが後にレコーディングしている。ジャクソンはその提案を見送った。2人は結局、プロジェクトの主導権を譲ることがお互いに我慢できなかったのだ。

プリンスは伝説の「BAD」サミットを去る際、ジャクソンと製作チームの方を向いてこう言った。「ビッグ・ヒットになるよ、僕がいなくてもね」。こうして、2人のレジェンドのコラボレーションが実現に最も近づいた機会は終わりを迎えた。

プリンスとジャクソンはついに一緒に仕事をすることはなかったが、そのキャリアはお互いに交わり、補完し合っていて興味深い。1988年の10月、プリンスはマディソン・スクエア・ガーデンでプレイしていた。一方ジャクソンはニュージャージーのメドウランズにいた。メディアはそれを「ハドソン川の戦い」と書きたてた。2人は、目を引くような類まれなる才能と手法を誇示した。ジャクソンの「BAD」ツアーは最大最高のもので、黒人、白人、若者、年配者問わず、誰に対してもアピールするものであった。一方プリンスの「Lovesexy」ツアーはポップの主流の期待を故意に裏切っている。

ジャクソンは優秀なダンサーだ。プリンスは優秀なミュージシャンだ。ジャクソンは完璧主義と映画監督のような物語性をもってライブ・パフォーマンスに望む。全てが磨きあげられ演出されている。一方プリンスは、ライブ・パフォーマンスにジャズ・ミュージシャンのようなアプローチをとる。自由度が大きく即興的なのだ。セットリストが変更になることもあるし、パフォーマンス自体が変わることもある。ただ、両者ともにスーパースターのカリスマと存在感を有していた。観客とともに、熱狂を生み出し、生まれ変わるような感覚を生み出すことができた。ゴスペルの牧師のように、彼らは相互に作用するエネルギー、すなわちコール・アンド・レスポンスを生み出し、多くのファンたちにとてつもない経験をもたらした。

(その3)へ続く
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