「We Are the World」30周年記念、分刻み解説(その4)

3:08 コーラスは46人のスターだ。ソロは午前4時から5時にかけて行われた。だが、コーラスはもっと時間がかかっている。午後10時半ころから朝の3時ころ、つまり1月28日の夜が明けて29日の朝にかけてである。ジョーンズは、全体の録音は最初にする必要があると判断していた。スターたちが自分のパートをやっつけてすぐに帰ってしまう、ということがないようにするためだ。彼はコーラスのレコーディングを、「OK、まき割りを始めよう」と言って始めた。

自伝「Q」でジョーンズは、コーラスではスターたちはそれぞれ立ち位置がマーキングされていたと述べている。「私たちはセッションの間、彼らに何かを決めさせるということをしたくはなかったのです。彼らの立ち位置、歌うパート、いつ歌うか・・・私たちはそれをよくよく考え、そして説明する必要がありました。これほどの人数・レベルのグループが意思決定にいったん参加したら必ずトラブルが起こるということを私は長年の苦労から学んでいたのです」。

案の定、午前1時を過ぎたころ、壮大な口論が始まった。特に意味のない言葉に話が集中したのだ。ジャクソンがコーラスを"sha-lum sha-lingay"という言葉で締めくくったのだが、前年のBand Aid(ちなみにLive Aidはこの年の後半)の「Do They Know It's Christmas?」の中心人物ボブ・ゲルドフ(彼が冒頭、エチオピアの飢餓の残酷な現実(「生きている者の隣に遺骸が横たわっている」)について語ってこの晩のセッションがスタートした)は、"sha-lum sha-lingay"などと歌えば、アフリカをバカにしているように聞こえるだろうと異議を唱えたのだ。

スターたちがこの問題を議論している間、ジョーンズはカメラのスイッチを切っていた。スティーヴィー・ワンダーはナイジェリアの友人に電話をするために席を外した。正しいスワヒリ語のフレーズを教えてもらうためだ。ワンダーが帰って来て、正しい歌詞は「willi moing-gu」だと報告した。ジョーンズは「面倒なことになる」と言った。

レイ・チャールズが叫ぶ。「何だって?Willi何だって?Willi moing-guか、くそ!くそったれの朝の3時だぜ。スワヒリ語?くそ!これ以上は英語でも歌えないよ」。この時点で、ウェイロン・ジェニングスはスワヒリ語で歌うことに気が進まないと完全に離れてしまった。エチオピア人はスワヒリ語は話さないという点をゲルドフは重視した。「ドイツ語でイギリス人に向けて歌うようなもの」としてローパーが指摘したポイントである。

ローパー、サイモン、ジャロウは、ある重要なフレーズについて周囲を説いて回り、ジャロウが「One world, our world」という言葉を思いついた。その後それは「One world, our children」と修正が加えられた。ティナ・ターナーは飽きてしまい、目を閉じて独り言を言った。「sha-lumの方がいいわ。誰が意味なんか気にするの?」

3:21 "There's a choice we're making/We're saving our own lives"。自分のことを考えているように思える歌詞だ(公式メイキング・ビデオのホスト役のジェーン・フォンダは、ジョン・ダンの詩”Any man's death diminishes me, because I am involved in mankind"と対比させているが)。だがもともとこの部分は"There's a chance we're taking/We're taking our own lives"となる予定だった。グループが、集団自殺を支持していると不本意にも思われることのないよう、リッチーとジャクソンがレコーディング時に変更したのである。

3:36 ハロー、ジョン・オーツ!

3:45 ハロー、ラトーヤ・ジャクソン!

3:49 午前5時ころにソロが一通り終了した後は、一部のスーパースターたちによるコーラスのレコーディングだった。「ボビー・ディランはどこだい?」とジョーンズが尋ねる。「ボビーをここへ」。白髪交じりでレザーのジャケットを着たボブ・ディランは1985年時点では商業的に力のあるアーティストではなかった(この年には忘れられたアルバム「Empire Burlesque」をリリースしている)。だが彼は依然としてアイコンであった。問題は、ディランは音程がフラフラしていて、加えて聞き取りにくいということだった。
「彼はメロディーの人じゃない、しかもそのメロディーにしてもとても個性的だったんだ」とジョン・オーツは述べている。

「半分は歌い、半分はしゃべるように」とジョーンズはディランを指導した。「君はトーンが動いているよ」。

「スティーヴィー、一度演奏してくれないか?」とディランは言った。そしてピアノの方へ移動し、ワンダーが歌ってみせた。当初、ワンダーの方が本人よりも本人らしかったが、ディランの口ごもるようなボーカルは最後には彼独特のつぶしたような歌い方に発展していった。「"We are the children"はいいよ」とジョーンズはディランに自信を持たせ、マイクに近いところへ彼を立たせた。「オクターブ全部使ったのはあの時だけだよ」。

「あんなのでいいのかい?あんな感じで?」と自信のないディランはもう一テイクを録った後に尋ねた。別のランスルーの後でも彼はジョーンズに言った。「あれが良いとはちっとも思えない。消去してもらってもかまわないよ」。だがジョーンズが彼をハグし、パーフェクトだと言うと、ディランの顔はとびきりの笑顔となり、「そう言うのなら」と言った。

4:20 ハロー、アニタ・ポインター(ポインター・シスターズ)!ハロー、ハリー・ベラフォンテ!ハロー、ダン・エイクロイド!待て、ダン・エイクロイド?ジャケットにタイに大きなサングラス。映画スターというより会計士だが?確かに、彼にはナンバーワン・アルバム(ブルース・ブラザーズの「Briefcase Full of Blues」[1978年])があるし、この部屋にいるものの中にはこれにかなわない者もいる。彼はどのようないきさつで「USA for Africa」のメンバーになったのか?「全くの偶然で」と彼は2010年にNew Hampshire Magazineに対して語っている。「父と僕がLAでビジネス・マネージャーの面接をしていて、その時にあるタレント・マネージャーの事務所に行ったんです・・・(これはおそらくクレイガンだろう)・・・。私たちは間違った場所に来たと気がつきました。探していたのはお金のマネージャーで、タレント・マネージャーではなかったのです。当時は自分でマネージングしていましたし、今でもそうです。でも彼は、ここにいるのであれば『We Are the World』に参加しませんか?と言ったのです。私は、『場違いではないだろうか?』と考えました。でもブルース・ブラザーズではミリオン・セラーとなったし、僕にはミュージシャンという一面もある。だから参加したんですよ」。

4:29 次のアイコンはレイ・チャールズだ。アメリカのR&Bのゴッドファーザーというだけではなく、1947年のシアトル・ジャズ・シーンまでさかのぼる、クインシー・ジョーンズの旧友にしてコラボレーターの一人である。当時、彼はカントリーのスターとして自分自身を変革していた(そしてこの前年にはデビュー・アルバム「Friendship」でカントリーチャートのトップになっている)。実際には彼のボーカルはメインセッションの数日後にレコーディングされた。チャールズは参加ミュージシャンのほぼ全員から尊敬されていた。だから、彼はジョーンズやリッチー、ジャクソンのようなやり方でセッションを引っ張ることはなかったが、仕事をちゃんと進めるということを他のミュージシャンたちに忘れさせなかったという点においてきわめて重要な役割を果たした。さらに彼は、この晩随一の傑作セリフを残していった。午前2時にスタジオを出る時、1月からずっといい恋愛をしていないと堂々と宣言したのである。まだ1月ではないか、と誰もが思ったことは言うまでもない。

(その5へ続く)
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