「We Are the World」30周年記念、分刻み解説(その1)

「エゴは入口で預けてください」。1985年1月28日、ロサンゼルスのA&Mスタジオの入口ドアにはこう掲げられていた。プロデューサーのクインシー・ジョーンズがそうさせたのだ。国中のビッグ・スターたちがこのドアを通ることになっていたし、エチオピアの飢餓を救う資金集めとなるはずのレコードを録音するには一晩しかなかったのである。その結果、USA for Africaによる「We Are the World」は30年前の1985年3月7日にリリースされた。スタジオに現れた46人のボーカリストたちは、史上最大の究極のスーパーグループを形成していたといってもいいかもしれない。だが、気持ちは緩んでいた。ジョーンズはその晩、選ばれたシンガーたちに向かってこう言ったのだから。「みんな、ダンスパーティーも同時開催だ」。

0:00 ビデオはシンセサイザー(1985年の最新機器だ)とコンピューターで生成した地球の映像で始まる。その地球が自転して見えるのは、アフリカ大陸よりもアメリカである。
0:18 スターたちが色とりどりのインクで署名したと思われる絵が登場。ダイアナ・ロスとアニタ・ポインターが最も派手な署名だ。独特なのはOを大きく書いたジョン・オーツ。スティーヴィー・ワンダーは指紋で署名している。しかしレイ・チャールズは意外にも小奇麗な手書き文字である。リンジー・バッキンガムはUSA for Africaの下という一等地を主張。このビデオで彼はこれが一番目立つことになる。

0:26 「We Are the World」をマイケル・ジャクソンと共作したライオネル・リッチーが先陣を切る。彼はすぐに退場できるように自らをトップにしたのだ。リッチーは1985年には世界のトップにいた。すなわち、マルチプラチナ・アルバムの「Can't Slow Down」が成功しており、この年の後半には「Say You, Say Me」でシングル・チャートのトップを獲ることになる。この夜にはアメリカン・ミュージック・アワード(AMA)のホストを務め、前年はマイケル・ジャクソンの「Thriller」だった最優秀ポップ/ロック・アルバム賞をプリンスの「Purple Rain」が受賞していた。「We Are the World」のセッションがAMAと同じ晩に計画されたのは、多くのスターたちがAMAに出席するためにロサンゼルスにいたからである。

昨年、リッチーは同じ晩にAMAと「We Are the World」のセッションのホストを務めたクレイジーさを振り返っている。「到着するやいなやスクリプトをチェックし、なんとかまとめる。誰を登場させる?みたいなね」。

0:31 スティーヴィー・ワンダーがマイクの前に進み、リッチーとハモる。リハーサルではワンダーは音を外しまくっていた。リッチーがそれをからかって、「スティーヴィー、ハマってるな。それは合法なのかい?」と話しかけた。彼らの間では、これはエイベッツ・レッドナウ(訳注:スティーヴィーはこの変名でレコードを出したことがある)という彼の分身のせいであるとの結論に至った。もはや、コマーシャルに出ずっぱりの70年代の彼ではなかったが、「Part-Time Lover」がヒットするなど1985年のチャートでは依然として力を持っていた。元々ワンダーがリッチーと共作することになっていたが、クインシー・ジョーンズはワンダーがアルバム(In Square Circle)製作に忙しいことを知っていたので代わりにマイケル・ジャクソンを推したのである。リッチーの記憶によると、休憩中にレイ・チャールズがトイレの場所を尋ねたという。するとワンダーが、「僕が連れていくよ、ついてきて、レイ!」と言って彼の手を引いて廊下を歩いてドアの前まで連れて行った。目が見えない者が目が見えない者を連れて行ったということで、他のスターたちは大変驚いたという。

0:41 ポール・サイモンが楽譜を受け取って「oh, it's time to lend a hand」から引き継ぐ。彼のジャケットやチェックのシャツは、リヴァース・クオモのファッションの基本となっているが、1985年当時、サイモンは長い間ヒットを出していなかった。頻繁に出演していた「Saturday Night Live」以外は彼のタンクには多くは残っていないかのようであった。しかしながら翌年、彼はキャリアを決定づける「Graceland」をリリースする。

0:53 リッチーの手が伸びて、ケニー・ロジャースにキューを出す。彼はあたかも自分が特に大ファンだと言わんばかりに「USA for Africa」のスウェットを着ている(アル・ジャロウやダイアナ・ロスらもこのシャツを着ている)。1985年当時、ロジャースはポップ・カントリーの大スターだった(ただし、玄人好みのアーティストというわけではなかった)。彼はまた、ライオネル・リッチー同様にケン・クレイガンをマネージャーとしていた。ケン・クレイガンはこのセッションにスターたちを集める原動力となった人物だ。クレイガンによれば、「USA for Africa」のけん引役はハリー・ベラフォンテで、クリスマス直前にクレイガンに電話をかけ、チャリティーコンサートをやりたいと持ちかけたという。それはコンサートにはならず、代わりに、数週間前にチャートでヒットしたBand Aidの「Do They Know It's Christmas」に続く、レコーディング・セッションとなった。しかしAMAの前にすべてを準備しなければならないにもかかわらず、クレイガンには準備期間が1カ月足らずしかなかった。クレイガンによれば、分岐点となったのはブルース・スプリングスティーンを出演させたジョン・ランドーを説得できたことだったという。

0:59 ジェームス・イングラムが鮮やかなシルバーのトラックスーツで登場する。スペースシャトルの訓練から直行でやって来たかのようである。イングラムには2年前にナンバーワン・シングル(Baby, Come to Me)があったが、ジャクソンの「Thriller」からのシングル「P.Y.T. (Pretty Young Thing)」を共作したということで、ジャクソン、ジョーンズの両名と関係があったということの方が理由としては大きかった。

1:06 ティナ・ターナーの髪の毛はヘッドホンでなんとか収まっている。1985年、ターナーは強力なカムバック・アルバム「Private Dancer」からヒット・シングルをリリースしていた。長い夜が明け、彼女の出番が終了した時、彼女はそれを祝って「フィッシュ・バーガー!」と叫ぶことになる。ターナーとハモっているひげ面はビリー・ジョエルだ(ビリー・ジョエルはヒット作「An Innocent Man」と「The Bridge」の間という状況だった)。レコーディング開始早々、ジョエルはレイ・チャールズがスタジオ入りするのを目にすると、「自由の女神が入ってきたみたいだ」と言った。ジョーンズは、「レイ、こいつは、『New York State of Mind』を書いたやつだよ」と言って紹介した(この曲はチャールズへのオマージュである)。ジョエルは目に見えて震えていたが、両者は意気投合する。つまり、二人は翌年、デュエットの「Baby Grand」をリリースし、1999年にはチャールズがジョエルのロックの殿堂入りを実現させたのである。ところでジョエルはフィアンセのクリスティ・ブリンクリーを同伴していた(二人はこの数週間後に結婚した)。レコーディング・スタジオに入れるのはミュージシャンのみで、500人のゲストたちは隣接するサウンドステージで開かれていたパーティー会場からセッションを見物していた(A&Mスタジオはその数十年前、チャーリー・チャップリンが本拠地としていた場所であり、近年ではジム・ヘンソン・カンパニーの本部となっている)。ブリンクリーのほかの著名なパーティー参加者にはブルック・シールズ、ジェーン・フォンダ、カリーム・アブドゥル=ジャバー、スティーヴ・マーティンらがいた。あるランスルー(通しリハ)で、ジョエルが少し間を取ってピアノのそばまで行き、自分自身でこの曲を弾いてみた。キーを確認するためだ。「Eだ」と彼は忌々しげに言った。「僕はEが嫌いなんだ」。

(その2へ続く)
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