ジョン・ブランカ インタビュー - California Lawyer誌(その2)

ジャクソンの死後数日の間は、ジャクソンに会ったことのある者が皆、テレビカメラをハイジャックして話をしているかのようであったが、ブランカは違っていた。彼はこの仕事を長年こなしてきた中で、スターのエゴや桁外れの生活に対処する最善の方法は、自分自身を抑えることだということを知っていたのである。彼はこう言っている。「私が長い間うまくやってこれた理由の一つは、思慮深さ、プライバシー尊重、そしてクライアントの秘密を厳守するということだと思っています」

彼はまた、取引を成立させるためにはどんなことでも意欲的である。「私はずっと、魅力的で無慈悲でろくでなしでした」と彼はきっぱりと語り、第4クォーター残り数分でボールを受ける男だと自分自身を評している。

ジャクソンの遺産をめぐるバトルが世界の注目を集めるまでは、ブランカはロック界のビッグネームの代理人としてよく知られていた。彼のクライアント・リストにはロックの殿堂入りを果たした29人のメンバーがいた。この中にはローリング・ストーンズ、ドアーズ、ビーチボーイズ、ビージーズ、フリートウッド・マック、エアロスミス、カルロス・サンタナ、ZZトップらがいる。さらにバックストリート・ボーイズ、アリシア・キーズ、ニッケルバックもいる。しかし、ニューヨーク生まれの彼が1975年にUCLAのロースクールを卒業し、遺産運営企画を始めた当時、芸能関連弁護士というものは、彼の頭の中にはなかった。その後、タイム誌に掲載されたエルトン・ジョンのプロフィールで芸能弁護士にスポットライトが当たっているのを読んだことがベルを鳴らした。「即座に、それが私がすべきことであると思いました」とブランカは語る。その後まもなく、彼はセンチュリー・シティ法律事務所に入った。現在のジフレン・ブリッテンハムだ。

ブランカは父ジョン(社交好きで人気があった地方政治家)が自分の「社交術」を、母バーバラが「大志」を教えたと評する。母はエド・サリバン・ショーにたびたび出演したダンサーで、西海岸でのショービジネスの夢を追って家を出たのはブランカが5歳の時であった。11歳になった時、ブランカはカリフォルニアの母の元へ移った。

ブランカの名前は普通の音楽ファンの目にはつきにくいが、彼はコンサートの企画から、チケット・セールス、マーチャンダイジング、著作権の分配まで、ショービジネスのさまざまな側面に影響を与えている。

大変革の一つは、たとえば2005年のラップ・メタルバンド、コーンの契約である。それまでの一般的な契約の取り決めでは、レコード会社はCDのプロモーションのみに関わり、ツアーやマーチャンダイジングについての取り決めを管理するためのグループには加わっていなかった。ブランカは契約の下、コーンとレコード会社EMIがすべての面でパートナーとなる橋渡しを行い、両者の間に相乗効果をもたらしたのである。このモデルはその後標準となった。同様に、1989年のローリング・ストーンズの「Steel Wheels」ツアーをブランカがまとめるまでは、ツアー開催地ごとに異なるプロモーターが仕切るのが普通であった。ツアー全体を一つのプロモーターの管理下におくことで(当然これにより全体の運営が合理化される)、関係する弁護士らの収入も増やすことができるのである(芸能弁護士は契約の前金か将来発生するロイヤリティー、あるいはその両方のある割合を報酬として受け取るのが普通だ)。
その3に続く)
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